ホップの基礎研究から生まれる、ビールの新たな可能性

世界の醸造家から高い評価を受けるホップ「ソラチエース」。サッポロビールは、この香り高きホップを100%使用した「サッポロ SORACHI1984」を発売しています。ソラチエースはサッポロビールが育種したホップです。しかし、その独特な香りのメカニズムは長きにわたり謎に包まれていました。ソラチエースの香り形成の解明に貢献した価値創造フロンティア研究所の實方綾子さんを取材し、研究秘話をお聞きしました。
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實方 綾子 (さねかた あやこ)

マーケティング本部 価値創造フロンティア研究所 高度専門研究員
大学の農学部修士課程で「脂質代謝」に関する研究をした後、2004年に食品会社に研究職として入社。その後、2010年にサッポロビールに入社し、価値創造フロンティア研究所に配属。現・化学解析研究グループで食品の分析を経て、ソラチエースの香気成分の研究に従事。2024年からは発酵科学・基盤分析研究グループで「発酵×香気分析×感性科学」を駆使した研究に取り組む。2026年、農学博士号取得、農芸化学女性企業研究者賞を受賞。

◆ 伝説のホップ「ソラチエース」とは?
1960年代、サッポロビールはホップの育種に着手し、1984年に「ソラチエース」を品種登録。個性的な香りのため、国内のビール原料として採用されることはなかった。その後、研究交流をきっかけにアメリカへ。2000年代に入って現地のホップ農家がその魅力に着目し、特徴的な香りと苦味が欧米で高い評価を得て、生産が拡大。サッポロビールでは2016年にソラチエースを使った初の商品を限定発売し、2019年には通年商品「サッポロ SORACHI 1984」を350ml缶で発売した。

2014年、商品・技術イノベーション部であるプロジェクトが立ち上がりました。それは、アメリカのクラフトビールシーンで着目を浴びていた「ソラチエース」の香りを科学的に解明するプロジェクトです。

当社が育種・開発したソラチエースには、他のホップにはないヒノキやマツ、レモングラスを思わせる特徴的な香りがあるとされ、世界中のさまざまな醸造家がこのホップを使ったビールを造っていました。しかし、ソラチエースの個性的な香りがホップに含まれるどの成分に由来するかは分かっていなかったのです。最大の特徴である香りのメカニズムを科学的に解明できれば、商品化する場合、消費者にその魅力を強く訴求できます。
しかし当時、外部機関などでさまざまな分析をしていたのですが、ソラチエースの香りの特徴を捉えることができず、プロジェクトは難航していました。一方、私は価値創造フロンティア研究所の現・化学解析グループに所属し、分析機器を使って、製品や原料中の幅広い成分分析の業務を行っていました。

業務の中には、製品や原料におけるさまざまな疑問や課題を解明する案件もあり、いくつかの香りに関する案件で微細な匂いを感じ取り、原因成分を特定することに成功していました。いつしか、「匂いなら實方」という評価をいただけるようになりました。

そうして、2015年、私に白羽の矢が立ち、このプロジェクトに参加することになりました。プロジェクト内で、ビール醸造研究の大先輩方と方針を話し合い、ソラチエースの香りのメカニズムを解明する研究をスタートしました。
ビールには300種類から500種類もの香り成分が含まれています。研究ではどのような成分が含まれているかを、主に「ガスクロマトグラフ(GC/MS)」と呼ばれる専門的な分析装置を使って明らかにしていきます。
手法は「匂い嗅ぎ分析」です。まず、研究用の醸造したソラチエースのビールと、別のホップを使用したビールを用意します。ビールから香りの成分だけを抽出し、専用の機器に注入します(上記写真)。

ビール中の香り成分は、装置の中にある「カラム」と呼ばれる長い管を通る間に個別の成分に分離され、最終的に出てくる成分ひとつひとつの匂いを嗅いで、「花のような香り」「ツンとする香り」などの言葉で表現していくのです。ソラチエースのビールでしか検知できない匂いこそがこのホップ特有の香りの原因となる成分だと分かるのです。

しかし、匂い嗅ぎ分析ではソラチエースの香りを特徴づける成分、つまり特定の匂いは発見できませんでした。

とても残念でしたが、香り成分を調べるもうひとつの方法「固相マイクロ抽出法」に着手しました。この方法は、固相マイクロ抽出ファイバーを使ってビールから香りを抽出・濃縮して機器分析する方法で、微量な成分も見つけられる可能性がある手法とされています。匂い嗅ぎ分析装置と同様で、ビール中の香り成分がカラムの中を通過することで個別に分離され、それぞれの香り成分をことができます。

通常の30メートルのカラムを使ってもソラチエース特有の成分は発見できなかったので、より明確に成分を分離できるように2倍の60メートルのカラムを使って分析をしました。すると、ソラチエースにしか現れないピークが(クロマトグラムに)現れたのです。その成分が「ゲラン酸」という成分であることが分かりました。

そこで、改めて、匂い嗅ぎ分析に戻り、ゲラン酸が現れる瞬間の匂いを嗅いでみたのです。でも、私には嗅ぎ取れませんでした。「ああ、私にはゲラン酸の匂いは分からないんだ」と正直落ち込みました。
ソラチエースにはゲラン酸がたくさん含まれていて、それが他のホップとは異なる特徴であることは分かりました。でも匂い嗅ぎ分析で香りがしない。香りの研究分野では、「香りのしない成分は全体の香りにほぼ影響しない」というのが通説でした。

つまり、「匂い嗅ぎ分析で香りを認識できないゲラン酸は、当然ながらビールの香りには影響しない」「ソラチエースの香りをかたちづくる成分ではない」と結論づけるのが普通だと思います。

ただ、私には「ゲラン酸って、なんかよい香りがしそう」という漠然としたイメージがありました。何の根拠もないけど、もう少し研究を続けてみよう。香りの研究を始めてから日が浅かったから、柔軟に考えられたのかもしれません。
ある日、研究室に「サッポロ生ビール黒ラベル」と、ホップの香りが強いフレーバーホップのビールがありました。試しに黒ラベルにゲラン酸を混ぜて味見をしてみました。何も変化は感じられません。

次に、フレーバーホップのビールにゲラン酸を加えて飲んでみると、「あれ、なんか香りが変わった?」と感じ取れたのです。部内でもプロジェクトメンバーにも試飲してもらうと、「確かに変わる!」と言ってくれました。

「ゲラン酸そのものは強い香りを発しないけれど、他のフレーバーホップの香り成分と反応すると香りの特徴が変化するのではないか」

そうした仮説を立てることができ、ふたたび研究が動き出しました。
成分分析だけでは、ゲラン酸による香りの特徴の仮説は証明できないので、官能試験を実施することにしました。

研究所や開発部門では、五味試験や香りの官能試験を受けて合格した社員を「官能評価パネル」に認定しています。パネルメンバーは 、普段から各工場で製造したビールや市販品の評価を行っていて、ビールの香りの違いにも敏感です。

私が立てた仮説を検証するため、ソラチエースの香りに敏感なパネルメンバーを選抜し、ソラチエースの香り成分を選抜して調合した複数のビールサンプルを評価してもらいました。

すると、ソラチエースに含まれる複数のホップの香り成分に、ゲラン酸を加えたサンプルと加えなかったサンプルを飲み比べた時、ほとんどのパネルが香りの違いがわかる、と答えたのです。

結果として、ゲラン酸はソラチエースの中の香り成分と一緒に存在した時にビール全体の香りを明らかに変化させ、ソラチエースの香りに近づくことを証明できたのです。

証明できた時は、私よりもプロジェクトメンバーの方が興奮していて、「これはすごい発見だよ!」と言われたことを覚えています。メンバーが喜んでいる姿を見て、「すごい発見なんだ・・・」と私自身の中にもじわじわと喜びが沸き上がってきました。
2016年8月、ホップにソラチエースを100%使った「Craft Label THAT’S HOP 伝説のSORACHI ACE」がWEBで限定発売されました。

リリースにも「ソラチエースで醸造したビールでは、レモングラスなどの成分である「ゲラン酸」が多く含まれ、特徴的な香りとなっていることを明らかにしました」と明記されました。
発売と同時期にアメリカのデンバーで開かれた「WBC(World Brewing Congress:世界醸造大会)」でソラチエースの研究発表を行いました。発表を終えると、欧米のビール醸造研究者たちから声をかけられました。

「ソラチエースの香りを解明してくれてありがとう。このホップがすごく魅力的なのは知っていて、経験的に他のホップと組み合わせると香りが複雑になったり、面白くなったりするのは分かっていたけれど、それがなぜかが分からなかった。あなたたちの研究のおかげで、とても腑に落ちたよ」

海外の研究者たちもソラチエースの香りに魅力と疑問の両方を感じていた。私たちの研究がその謎をロジカルに説明できて、みなさんが納得できた。それだけでも研究をした甲斐がありました。

その後、ソラチエースのゲラン酸研究は、2017年3月に2017年度農芸化学会トピックス賞を受賞、そして2017年5月開催の「第36回ヨーロッパ醸造学会」で発表され、ポスター部門の最高賞である「Best Poster賞」を受賞。

さらにこのソラチエースの研究で私は農学博士号を取得し、2026年3月には「ホップ品種の特有香とその相互作用に関する研究」で、サッポロビールとしては初となる「農芸化学女性企業研究賞」を受賞することができました。

「日本農芸化学会2026年度大会」においてサッポロビールの研究員が「農芸化学女性企業研究者賞」を受賞
ソラチエースをはじめ、私が香気成分の研究で取り組んでいる「匂い嗅ぎ分析」は、機械と人の感覚の組み合わせで香りを探索するとてもアナログな分析方法です。

一見、人の感覚に頼った分析は不正確なように思うかもしれません。しかし、人の嗅覚はとても敏感で、人は匂いを認識できているのに、機器分析では何も検出できないことがよくあります。

例えば、私たち研究員は各メーカーのビールを飲めば、たいてい銘柄を言い当てることができます。でも、それぞれのビールを分析するとほとんど匂い成分は同じなのです。それほど人の感覚は鋭く、機械が分析できるレベルはまだ追い付いていない。だからこそ、匂い嗅ぎ分析はやりがいがあります。
私は今、発酵科学・基盤分析研究グループに移り、「発酵×香気分析×感性科学」をテーマに研究を進めています。力を入れているのは、ビールを醸造する工程でハーブ・スパイスを加え発酵によって香りが変化するメカニズムを解明する研究です。

酵母がハーブの香り成分を変換し、ビールの香りが変化する。発酵って本当にすごいんです。この研究が進んでいくと、さまざまな香りの説明ができるようになる可能性があります。

基礎研究で酵母の香りに与える影響を解き明かし、さまざまな選択肢を開発部門に手渡すことで新たな商品が生まれていく。「こういう科学的プロセスによって、いい香りが生まれているんですよ」と、エビデンスに基づいて商品の魅力を説明し、消費者に手に取ってもらう瞬間を生み出していきたいと思います。

ゲラン酸は、それ自体にはほとんど香りがないのに、他のホップの香り成分を増強するいわば「ソラチエースの影の立役者」です。価値創造フロンティア研究所は商品につながる研究成果や技術を生み出し、サッポロビールの商品づくりを影で支える研究者集団。私も基礎研究を通じて、ゲラン酸のような「影の立役者」になりたいですね。

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