村橋久成は、開拓使麦酒醸造所の建設・事業責任者として任命された人物です。幕末には薩摩藩の留学生としてイギリスに渡りました。そこで村橋は、蒸気機関をはじめとする産業革命の成果に大きな衝撃を受けます。
その経験を活かし、帰国後は開拓使で近代産業育成を担当。ビール事業にも関わることになりました。
開拓使は、当初、東京に麦酒醸造所を建設して試験醸造を行い、そこで成功したら北海道に移すことを決定していました。しかし、開拓使が目指すドイツ式のビールづくりでは、低温での発酵・熟成が必要でした。そのためには、冷凍機のない当時は、高価な天然氷に頼るしかありません。はたしてこの暑い東京でビールづくりを成功させることができるだろうか?村橋は疑問を抱きます。そして、大量の氷を確保する観点からも、醸造所は東京ではなく最初から北海道に建設すべきだという考えに至ります。
すでに決まっていた幹部の方針を覆すことは、容易ではありませんでした。それでも村橋は諦めませんでした。関係者への説得を重ね、ついに醸造所の建設地を東京から札幌へ変更させます。
もしこの決断がなければ、現在のサッポロビールは存在しなかったかもしれません。
中川清兵衛は、開拓使麦酒醸造所の初代醸造技師となった人物です。まだ海外渡航が固く禁じられていた幕末、中川は17歳で日本を飛び出しました。イギリスを経てドイツへ渡り、苦労を重ねながら現地で暮らします。
そこで出会ったのが、後に外務大臣となる青木周蔵でした。青木の勧めを受けた中川は、ベルリンのビール会社で本格的な修業を開始します。2年2か月に及ぶ厳しい修業を経て、ビール醸造と麦芽づくりの技術を習得し、修業証書を取得。こうして、ドイツで修業した日本人初の麦酒醸造人が誕生しました。
帰国後、中川は開拓使麦酒醸造所の主任技師として迎えられました。
そこで出会ったのが、村橋久成でした。時に村橋32歳、中川28歳。この二人が中心となって、国産ビール事業立ち上げに向けた挑戦が始まります。
しかし、その後のビールづくりは順風満帆ではありませんでした。
暖冬による氷不足で仕込みが遅れ、発酵もうまく進みません。東京からは完成を急ぐ催促が届きますが、中川は品質に妥協しませんでした。
その間、村橋は東京に戻り、完成後に備えて輸送経路の確保や冷蔵用の氷の手配、ビールを詰める瓶の調達などに奔走します。
予定より5か月遅れた1877(明治10)年6月、ついにビールが完成します。ところが、政府首脳へ送ったビールのコルク栓が吹き飛ぶというトラブルが発生。大久保利通に献上した12本は、すべて噴き出してしまったといいます。それでも村橋はあきらめませんでした。コルク栓を改良させ、函館で試験販売を始めます。
そして1877(明治10)年9月、待望の冷製「札幌ビール」が、東京で一般向けに発売されました。その品質は、ビールを知る外国人たちからも高く評価されたと伝えられています。ラベルには開拓使のシンボルマークである「北極星」が描かれています。北の夜空で輝き、開拓の指針となったこの星は、以来、サッポロビールの伝統と開拓者精神を象徴するシンボルとして、今日まで受け継がれています。
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